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2016
御嵩あかでんランドオープン

電車のある町でしかできない体験を楽しむ「御嵩あかでんランド」、初となるイベントが9月24日、25日の2日間で開催されました。200名で募集をかけたところ、2日間で375名のお客さんが来場。遠くは滋賀県や東京から足を運んでくれた方もおられ、沿線は赤い服を来た来場者で賑わいました。

2015
地域みらい大学@御嵩
プロジェクトスタート

名鉄広見線(新可児-­‐御嵩間)を元気にするアイデアを考える地域みらい大学@御嵩プロジェクトがスタート。1年目は、名鉄広見線を愛する町民を増やし、乗客数を増やすために、ソーシャルデザインの実践的なプロセスを学び、フィールドワークやアイデア出しを通じて、みんなで課題解決のためのアイデアを考えました。

2009
名鉄広見線対策協議会の発足

沿線関係市町の御嵩町・可児市・八百津町では、名鉄広見線対策協議会を設置し、活性化計画を策定しました。その後、名鉄広見線活性化協議会へと移行し、活性化計画の推進について協議を続けています。また、地元有志による「名鉄広見線を守ろう会」を中心として、「乗って残そう、名鉄広見線」を合言葉にした存続運動も始まりました。

2008
ワンマン運転の開始と
新可児~御嵩間の無人化

2001年に廃線となった名鉄八百津線。八百津と接続していた広見線新可児~御嵩間も、かつては犬山・名古屋方面との直通特急が走っていましたが、現在は利用者が大きく減少し、業務の合理化が進められています。2003年3月、平日昼間と休日の御嵩から犬山・名古屋方面の直通列車が廃止となり、2008年6月に新可児~御嵩間でワンマン運転が開始され、すべての列車が区間内折り返し運転となりました。また、御嵩・明智両駅で駅員の無人化が実施され、区間内は新可児駅を除き、すべて無人駅となりました。

ワンマン運転の様子
(顔戸~御嵩口間2010年9月)
写真撮影:本田博志氏

広見線(新可児~御嵩間)
ワンマン運転案内チラシ
中山道みたけ館蔵

2001
八百津線の廃線

昭和50年代に入ると自家用車の普及が進み鉄道利用客が減少し始めました。広見線の新広見(新可児)~御嵩間や八百津線ではローカル線化が進み、本数の削減や駅の通過運行が実施されるようになりました。八百津線では1984年に非電化し、ワンマン運転による小型気動車(LEカー、通称レールバス)の運行が始まり(翌年新可児~御嵩間にも投入)、業務の合理化が図られるようになりましたが、その後も利用者は減少し、2001年9月30日、八百津線は全線廃線となりました。

現役時代の八百津線
写真撮影:三宅稔氏

おわかれセレモニー写真(八百津駅)
八百津町役場提供

八百津線おわかれ記念乗車券
個人蔵(大脇敬之氏)

5300系
1986年登場の2扉クロスシート急行用車両、車内設備は車掌室側シートを大人2人子ども1人が使用できる幅広タイプで、デジタル式速度計も備えており、現在唯一前面展望を楽しめる一般車です。5300系は旧車機器流用車で、5300系のボディーに新しい台車を使用した5700系もあります。

3300系
1987年に支線区用車両の更新を目的に旧車両の機器を使用し製造されました。6000系に似ていますが、3両編成の吊り掛け式駆動車です。ブォーォーンという独特のモーター音が特徴的でした。

3500系
1993年登場、ワンハンドル、VVVFインバーター制御、電気制御ブレーキ、120㎞/h運転など新性能車です。通勤車としては初めて、車内にLED速度計・案内表示装置が設置してあります。乗り心地向上のため、台車にヨーダンパーが取り付けてあります。
車両解説及び写真撮影:佐藤芳弘氏

1982
可児市誕生による駅名改称

1982年4月1日、可児市の市制施行に伴い、新広見駅を新可児駅に、伏見口駅を明智駅に改称しました。

個人蔵(大脇敬之氏)

6000系
1976~1985年まで10次にわたり、4両・2両各26本が製造され、今でも活躍中です。特に3次車は現在ワンマン改造され新可児~御嵩間を走っています。この6000系は登場当時、鉄道車両としての高評価を受け、昭和52年のブルーリボン賞を受賞しています。

キハ10系
1984年登場のLEカーで、閑散線区の改善と維持のために使用された気動車です。八百津線に使用されましたが、御嵩に入線することもありました。後に、三河線で使用していた冷房付き車両も見ることがありました。

8800系
1984年に観光用特急として製造されました。日本初のハイデッカー式前面展望室による快適性と簡易個室を持つ居住性を持った2両編成で、パノラマDXと呼ばれました。

5500系
1959年登場の5500系は特別料金不要の車両としては私鉄で初めて冷房装置を取り付けた急行型車両です。1次車・2次車があり、2次車の2両3本が最後まで残りリバイバルカラーで走りました。性能が7000系の前身であり、現役時はよく連結をしていました。

7700系
1973年登場、7000系増結用車両として、前面貫
通形で前面展望は無いものの側面は7000系譲り
の連続窓で車窓は良く、ミュージックホーンも付い
ていました。1983年から2003年まで特急車整備
で白帯を付けていました。平成22年3月に廃車さ
れました。

7000系
1961年の登場から1975年の9次車までありました。国内で初めて運転台を2階に上げて前面展望式としました。特急用車両ですが、普通運用にも使用するなど幅広く活躍しました。初期にはミュージックホーン・電笛を備え、車体色は色鮮やかなスカーレットカラー等、世代を超え幅広く人気があり、1962年にはブルーリボン賞を受賞しました。
車両解説及び写真撮影:佐藤芳弘氏

1952
御嵩駅の開設

名古屋鉄道(以下「名鉄」)東美線となった旧東美鉄道の路線は、1948年、新広見~御嵩間が広見線に編入され、伏見口~八百津間が八百津線となりました。1952年、現在の御嵩駅~御嵩口(旧御嵩駅)間700mが開通しました。東濃鉄道時代に開設した旧御嵩駅は、御嵩町の中心街からはやや離れた位置にあり不便でしたが、この路線延長により利便性が向上しました。

広見線昇圧に伴う新名古屋・新岐阜
直通運転祝賀状況(1965年3月21日)
名鉄資料館蔵

広見線昇圧に伴う新名古屋・新岐阜
直通運転祝賀状況(1965年3月21日)
名鉄資料館蔵

1943
名古屋鉄道への合併

1937年に日中戦争がはじまり、戦時体制が整備されてくると亜炭などの出荷が活発となり営業利益も増大しました。1938年からは株主配当も復活し、東美鉄道は順調な経営をおこないます。しかし、その後の太平洋戦争の進展により、交通機関を統合強化する国策が推し進められた結果、資本でも鉄道運行でも密接な関係にあった名古屋鉄道へ合併することとなり、1942年11月の合併契約を経て、1943年3月1日をもって名古屋鉄道「東美線」となり東美鉄道15年の歴史に幕を閉じました。

名古屋鉄道沿線案内(1943年)
名古屋鉄道への合併直後の路線図で、東美鉄道時代の路線・駅がそのまま引き継がれています。1944年には、東伏見をはじめ4駅の利用が休止されました。
名鉄資料館蔵

写真撮影:三宅稔氏

御嵩駅でのパイプ材積込(1939年)
中山道みたけ館蔵

850系
1937年登場のAL車、中央に運転台のある当時流行した流線形で、初期に正面窓上に3本の線があり、「なまず」の愛称で親しまれました。

3400系
1937年東部特急線用として登場したスカート付き流線形。1988年に3403Fを3401Fに改番した2連を残し廃車となりました。1993年、エバーグリーン賞を受賞し塗色を「いもむし」の由来でもある登場当時のグリーンツートンに戻しました。
車両解説及び写真撮影:佐藤芳弘氏

東美鉄道沿線案内
東美鉄道路線や願興寺・鬼岩など沿線
中山道みたけ館蔵

1928
東濃鉄道から東美鉄道へ

多治見~広見間を運行していた東濃鉄道が太多線建設のため買収され、残りの広見~御嵩間の運行のために設立されたのが、東美鉄道です。この東美鉄道の経営主体は、東濃鉄道、名古屋鉄道、大同電力(のちの関西電力)の3社で、八百津までの鉄道敷設は新会社が行うこととなりました。輸送効率を上げ利便性を図るため、東濃鉄道時代の軌間762㎜を1,067㎜に広げる工事と、電化工事、太多線広見駅につなげるための路線変更を行い、1928年10月から電車運転を開始しました。東美鉄道は東濃鉄道時代と比べ、電化はしたものの、路線の縮小や自動車の進出、経済界の不振のため業績が上がらず、株主への配当も無配が続きました。それでも、温泉旅館や路線バス等を副業として地域経済の発展を支えました。

新広見駅駅舎
東美鉄道開業当初、広見駅は太多線広見駅との共同使用でしたが、1930年、名古屋鉄道と共に新広見駅を新設しました。
左:名鉄資料館蔵、右:可児郷土歴史館蔵

東美鉄道列車時刻表(1936年)
御嵩~新広見間を1日23往復運行していました。列車時刻表の裏はバス路線の時刻表が掲載されています。

東美鉄道第1号車両
中山道みたけ館蔵

1920
広見~御嵩間の営業が開始される

1920年8月、広見~御嵩(現在の御嵩口駅)間6.8㎞の路線延長工事が竣工し、同月営業が開始されました。中央線多治見駅の開業から20年を経て、とうとう御嵩にも念願の鉄道が開通しました。運行を担っていた東濃鉄道は当初の目論見どおり、本業の旅客・貨物輸送を中心に、その他にも自動車輸送業等の関連事業も展開し、順調な経営を続けました。

御嵩駅の発車風景
名鉄資料館蔵

鉄道列車運転時刻表(1920年)
この当時、御嵩駅では上り下り各7本の発着がありました。新多治見~御嵩間の所要時間は約1時間10分で、運賃は59銭でした。
可児郷土歴史館蔵

1918
多治見~広見間の営業が開始される

多治見~御嵩間の路線工事では、平井信四郎自らが陣頭指揮を執り、特に用地買収には愛用のオートバイを駆使して交渉にあたりました。しかし第一次世界大戦の影響で資材が高騰し、資金不足になったことから、線路の軌間も、1,062㎜から762㎜に縮小し、建設されました。そして1918年12月、多治見~広見間11.8㎞が竣工し、営業が始まりました。

東濃鉄道開通式(1918年)
名鉄資料館蔵

開通式案内状(1918年)
可児郷土歴史館蔵

1912
多治見~御嵩間の
鉄道の設置が許可される

1900年に中央西線の名古屋~多治見間が開通したことにより、御嵩町域の物流は従来の中山道や木曽川の水運を利用したものから、次第に鉄道のある多治見を経由するようになりました。そのため、御嵩も多治見方面と鉄道を結んで、近代化を図ろうとする気運が高まってきました。1912年7月、上之郷地区の平井信四郎を代表とする発起人50名により、多治見~御嵩間18.5㎞の鉄道敷設免許が申請され、同年12月に許可されました。

改正鉄道旅行新地図(1916年)
明治33年、中央西線の名古屋~多治見間が開通しましたが、現在の御嵩町周辺は鉄道の空白地帯でした。
名鉄資料館蔵

平井信四郎
(1875~2004年)
名鉄資料館蔵